生活の風景
最近は行動範囲がせまいけど、毎日たのしいものが見つかる。
技術としての愛
愛について大して考えたこともなかったけど、三十路を迎える前に一応は考えておきたい。
思えば、愛をもってる(語ってる)ような人たちが、ずっと僕のライバルだった。なにかを愛している状態の人はいつだって強い。そういう人たちは愛してるものに対して際限なく自分の時間やお金を注ぎ込めるし、それをコストだとも感じない。最強。
その人たちに対抗するために、その人たち以上に時間と労力をかけて、頭をフル回転させて戦ってきた。それでなんならたまには勝つこともできたりして。
ただ、どうあがいたってコストと感じるものは、やっぱりコストでしかない。(彼ら彼女らと違って)労力をかけたぶん疲弊するし、疲弊して倒れないためにどんどん効率化して、どんどん手を抜くようになる。そのあげく手を抜いてもそこそこ戦えるような術を、僕はいくつか手に入れてしまった。
そして、そうして惰性で戦うことが、あんまり面白くないことにも気づいてしまった。バチバチ戦う方が、そりゃ絶対に楽しい。
じゃあ、どうしようか。
もう一度同じやり方で、コストを無視してがむしゃらに取り組むのも芸がない。ここはひとつ愛を試してみよう、と思った。
「我を忘れて何かに夢中になる」(疲労を感じずに全力で走る)状態。愛をどうにか再現してみよう。技術として手に入れよう。強さってのは案外そういうものかもしれない。
ということで来年のテーマは「愛」だ。良い一年にしよう。
アンテナの感度
同じ本を読んでも、AさんとBさんでは感想が違う、ってことがある。当たり前なんだけど。
人はみんな同じことを感じるわけではないので、一冊の本を百人が読めば、百通りの感想があっていい。
「めっちゃ面白いよ」と本を渡されても、たいして面白くなかったりするし。「つまんないよ」と渡された本から、驚くほど学びがあったりする。
それぞれの人に、それぞれの感性ってやつがあって、目の前にあるものは同じでも、人によって感じることは違う。
人生は短い。
短い人生からたくさんの楽しいことを引き出すために、磨かなきゃいけないのは、たぶん自分の感度だ。
なにを感じるのも、なにを学ぶのも、結局自分次第。「この件からお前が得るべき教訓は……」と常に言ってくれる貝木泥舟さんを心に飼うのも手かもしれない。
この冬はコートを着ようかな。
最近やりたいこと
最近というか、ここ数年。こういう感じのことを延々としていきたいと思ってる。
【#富士山頂ゲーミング】山の頂上には一体なにがあるのか
今年もやってきました。富士山が開山し、大勢の人たちが山頂を目指すこのシーズン。
僕たち「#富士山頂ゲーミング」チームも、7月16日から17日にかけて登頂を予定しています。
この「#富士山頂ゲーミング」というのは、とてもシンプルなゲームイベントで、名前の通り「富士山の頂上でゲーム」をします。それだけです。
発案者は僕の友人であり、『ロケットリーグ』というスポーツゲームのコミュニティで、よく大会実況をしているkokkenくん。彼はなかなか面白いヤツで、よくぶっ飛んだことをしています。
どのぐらいぶっ飛んでるかは別の機会にガッツリと記事にしたいんですが、簡単にご紹介しておくと、彼は北海道出身で、突然「海に行きたい」という理由で沖縄に移住……したと思ったら、ある日「そろそろ帰るか」と言って、ロードバイクにまたがり、札幌にむかってペダルを漕ぎだすようなヤツです。
なぜ、山のうえでゲームをするのか
さて、富士山にゲームをしにいくと周囲に話すと「なんでそんなことするの?」とよく質問されます。
そもそもこの企画、ゲーミングPCを担いで日本を横断していたkokkenくんが、通りかかった富士山にもついでに登りたくなって、「このままPCを背負って登るか」という謎の決断をしたことから始まった、偶然の産物のようなもの。実際に登ってみたら「思いのほか富士山がサイコーだった」ということで、彼がコミュニティのメンバーたちと毎年やることにしたイベントです。
とはいえ、「なんでこんなことをしてるのか」とか「どこが楽しいのか」について考えてみるのも面白そうです。
富士登山は、日常から離れる解放感、登頂した時の達成感、そして山頂で待ち構えている見わたす限りの絶景、などなど、語りつくせないほどの魅力にあふれています。ただ登山するだけでも、きっと満足できるはずです。
ではなぜ、わざわざ山の上でゲームをするのか。
正直なところ、まだ確かな答えは見つけられていません。ただ、この企画に参加すると「コミュニティを形成して、目的を達成する楽しさ」みたいなものがストレートに感じられる気がします。
- 参加者が同じ目的をもって、同じ方向を向いている=他者の行動が予測できる/自身の行動選択に迷わずにすむ安心感
- 顔なじみの参加者がいる=共通の話題がある気持ちよさ(文脈が共有されているのでコミュニケーションが楽)
- 提供される”完成されたサービス”ではなく、自分が影響を与える余地、余白がある自由さ
このあたりが思索の手がかりとなるかもしれません。
今回参加してみて、もう少し考えがまとめられたら、記事かLTなどでアウトプットできたらと思います。
去年は途中で雨ふってきて大変だったので、今年は晴れるといいなぁ……。
土俵を選ぶにしたって。
土俵。それは職場だったり、ポジションだったり、契約形態だったり、業界だったり。
どんな場所で、どんなルールで戦うかを考えなきゃいけない。それを決定しないと(把握しないと)戦うことはできない。
土俵を選ぶことはとても大事なことだ。勝ちたいなら、勝てる土俵で。学びたいなら、学べる土俵で戦う必要がある。しっかり選ばなきゃいけない。
とはいえ土俵選びも手段でしかないので、目的が決まってさえいれば選ぶのはたやすい。目的に対して適した土俵を選んで、そこで戦えばいいだけ。
ただ、こんなとき「やりたいこと」がある人はやっぱり強いなあと思う。やりたいことを中心に、シュパパパパッとスピーディに決断できちゃう。たぶん。
対して僕のようにやりたいことが見つけられない人間は、ずるがしこく計算して、選択する必要がある。めんどくさい。面白いけど。
土俵選びにしたって、なんにしたって、人生は選択の連続で、選択するということは、ほかの選択肢を捨てるということで、それを決めるには――まあ人それぞれ物差しはあるとおもうけど――例えば「何が得か/損か」とか「何が楽しいか/楽しくないか」みたいなことを毎回毎回考えなきゃいけない。めんどくさい。面白いけど。
で、こんな半端な生き方をしていても、ある程度まじめにやっていると、勝負の土俵はどうしても「やりたいことがある人」たちと同じ場所になったりして。そして対峙する彼らはこの勝負にリソース全振りしてたり、どんなことも苦じゃなくなる「やりたいことブースト」かかってたり、とにかくめちゃくちゃ強い。でもやるからには勝ちたい。だから、彼らの本気度に負けない時間や労力をかけたり、戦術を練ったりする。
これはこれで面白いけど、一旦じっくり時間をかけて考えて、やりたいことってやつをまずは見つけてから走り出すのが良いやり方なのかもしれない。とはいえ時間は無駄にできないので、当面は「ベストエフォートで走りながらやりたいことを探す」やり方を続けると思う。やりたいことができたときに、それをしっかり段取ることができる足腰を鍛えながら。
「納得いかないなら土俵を降りればいい。ためしに片足だけ突っ込むのもいい。ただし勝負するときは全力で」みたいな。結構なゆるふわ思考で生きてます。
ほんとは最近考えてるマネジメントのことまで書きたかったけど、時間がきたのでまた今度。
(この話題とはあんまり関係ないけど、最近「土俵を作る」仕事をしていて、どうやったら魅力的な土俵になるのか、その土俵を自分の生きる場所として選んでもらえるのか、みたいなことをよく考えている。これはとても楽しい)
息をしてるだけでも成長する
目指すゴール「x」を1とする。
図にするとこんな感じ(図1)
ゴールを目指して頑張ってるのに、同じところをぐるぐるしてる気がすることもある(図2)
でも、実はそんなことはなくて、同じことをしていても成長してたりもする(図3)
「全然ゴールに近づいてる気がしない」と思うこともある。
その時の脳内は図にするとこんな感じ、成長を「y」としとく(図4)
でもちょっとはゴールに近づいてたりして(図5)
そしてゴールにたどり着いたときは、結構成長してたりしてね(図6)
意識高いことを書こうとしたけど、図を作るので満足したブログがこちらです。
ツール触るの楽しかったです。あー成長した。